道徳の貯金箱(橘玲著「朝日ぎらい」より) | 専門分野と弁護士費用の疑問に答えます
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道徳の貯金箱(橘玲著「朝日ぎらい」より)

 最近は(昔からかもしれませんが),差別的あるいは反道徳的と捉えられかねない言論があると,マスコミ等が挙って一斉にその言論を叩き,さらにはその言論とは無関係な発言者の人格に対する攻撃・非難まで加えるのをよく見聞します。その言論の趣旨を正しく捉えたうえで,きちんと理由を示して言論批判するのであればいいのですが,なかには,その言論の文脈を無視し,一部の言葉を抜き出して言論の趣旨を勝手に曲解して非難するものも少なからず見られます。

 差別的あるいは反道徳的(と見られる)言論が許されるとは言いませんが,そのような言論もそれなりの理由に基づいている場合もありますし,また,言論の趣旨が正しく伝わっておらず誤解されている場合もあるかもしれません。その言論の発言者は,自らの正義感に基づいて発言しているでしょうから,頭ごなしに批判されても納得できず,批判者に対し反感や憎悪を抱くだけです。大勢から集中攻撃を受ければ,そのときは圧力に負けて一時的にその言論を撤回するかもしれませんが,それは真意に基づかないため,しばらくすればまた同じ言論が繰り返され,相互に理解し合えないまま,何の解決にもなりません。

 さらに,差別的あるいは反道徳的であるとして非難を受けた言論が,果たして本当に差別的あるいは反道徳的な言論として許されないものなのだろうかということも,よく考えてみる必要があると思います。大勢の人々が差別的あるいは反道徳的な言論であると感じてその言論を非難したからといって,それが必ずしも差別的あるいは反道徳的な言論として非難に値するものであるとは言い切れないと思います。

中身のないきれいごと

 差別的あるいは反道徳的(と見られる)言論に対するマスコミ等による一斉攻撃を見聞するにつけて,それら批判の中には「中身のないきれいごと」が多々あるように感じられ,何故このような現象が生じるのか(もう少し反対意見があってもいいのではないか)と疑問に思うことがよくあります。もちろん,マスコミ等が自己保身を図り大衆(多数派)に迎合して穏便な主張をしているという面もあると思いますが,その前提として,特に差別的あるいは反道徳的(と見られる)言論について,何故,社会全体がこれを一斉に批判する空気に支配されるのか(批判に反論する意見や問題提起すらできないような雰囲気になるのか)というのが大きな疑問です。

 そんな疑問を抱いていたところ,つい最近,1冊の本の一節を読んで「なるほど」と思うことがありました。「朝日ぎらい」(橘玲著・朝日新書)という本の「道徳の貯金箱」(180頁~)という一節です。橘玲氏については,一昨年(平成28年)出版された「言ってはいけない 残酷すぎる真実」(新潮新書)という著書が話題になったことからご存知の方も多いと思います。同氏の著書は,政治,道徳,社会問題などについて,「きれいごと」ではなく,科学的論拠に基づいて人間の本能あるいは本性(ある意味「汚く残酷的な部分」)から論じている点で,とても説得的でおもしろいです。なお,「朝日ぎらい」というタイトルからすると,この本は朝日新聞に対する批判が論じられているように誤解されそうですが,著者も「まえがき」冒頭で指摘しているとおり,そのような内容ではありません(同書が朝日新聞出版から発行されていることからも明らかだと思います)。

 そこで,この著書「朝日ぎらい」の一節「道徳の貯金箱」(180頁~)の概要をご紹介します。

 現代社会の価値観(道徳観)では「差別(人種差別,男女差別など)はいけないことだ」というのは当然です。

 では,「一部の女性はあまり賢くない」という命題が正しいか誤っているか(二者択一の)質問(質問A)をされた場合,皆さんはどのように回答するでしょうか。特に男性回答者は,「正しい」と回答すると自分が性差別主義者であるかのように誤解されかねないと思って,「正しい」とは回答しづらいと思います。しかし,逆にこの命題が「誤っている」とすれば,論理的に「すべての女性は賢い」ということになってしまい,それはそれで違和感があります。

 これに対し,「ほとんどの女性はあまり賢くない」という命題が正しいか誤っているか(二者択一の)質問(質問B)をされた場合,誰でも自信をもって「誤っている」と回答することができると思います。その回答が道徳的に見ても事実としても正しいといえるからです。

 これはプリンストン大学の学生(男性115人,女性87人)を被験者として行われた実験ですが,学生を2つのグループに分けて,一方のグループ(グループa)には上記の質問A,他方のグループ(グループb)には質問Bをしたうえで,続いて,両方のグループに共通の質問として,次のような質問をしました。

 被験者が小さなセメント会社の経営者であると仮定して,顧客開拓の交渉を行う従業員を採用することとします。セメント業界は極めて特殊な世界で,工事現場は次から次へと変わり,現場の親方や建設会社との信頼関係を築かなくてはなりません。さらに,極めて競争が激しく,値引き要求も厳しく,技術的にも高度な仕事で,自分の専門知識に自信がなさそうな担当者は顧客から相手にしてもらえません(要するに,このシナリオは暗に男性向きの仕事であることをイメージするように描かれています)。さて,この仕事について,性別による向き不向きがあると思いますか(質問C)。

 この質問Cの結果について,グループaとグループbとの間で,男性被験者には統計的な誤差を上回る有意な差が生じました(女性被験者には有意な差は生じませんでした)。すなわち,グループbの方がグループaよりも「男性応募者を優先して採用すべきだ(この仕事は男性向きだ)」と回答する割合が多かったのです。グループaの学生は,先の質問Aで差別意識にさらされ,それが心理的負債となったため,無意識のうちに,次の質問Cではその負債を挽回しようとして「男女公平に評価すべきだ(性別による仕事の向き不向きはない)」と「政治的に正しい」回答をしたのです。これに対し,グループbの学生は,先の質問Bで差別意識にさらされず,心理的負債がなかったため,次の質問Cでは,道徳的な圧迫を受けず,無意識のうちに,「男性応募者を優先して採用すべきだ(この仕事は男性向きだ)」という(ある意味本音の)回答をしたのです。

道徳の貯金箱

 この実験結果から分かることは,道徳観は貯金のようなもので増えたり減ったりし,道徳観が満たされているときは無理してまで道徳的言動をしようとしないが,道徳観が満たされていないときは,それを満たそうとして,無意識のうちに無理な道徳的言動をしようとするものだということです。橘玲氏は,この結果を踏まえて「きれいごとをいうひとは,道徳の貯金箱がプラスになったように(無意識に)思っているので,現実には差別的になるのだ。」とも述べています(185頁)。この表現に従えば,「道徳観が満たされている人はきれいごとを言いたがらないが,道徳観が満たされていない人はきれいごとを言いたがる」ということになるのでしょうか。

 私自身も,つい最近,この実験結果に納得するような経験をしました。

 私は,前回のコラム(「車内マナーと鉄道会社・乗務員の対応への疑問」2018-07-31)で,横浜市営地下鉄が実施する「全席優先席」制度,さらには,お年寄りや身体の不自由な方に座席を譲るというマナーないし道徳観(これを強制する雰囲気)に対する疑問を提起しました。もちろん,このようなマナーないし道徳観が間違っていると言いたいわけではありません。ただ,思いやりというのは,その人の自発的な気持ちに委ねるべきで,「全席優先席」のように心理的圧迫感を与えるべきではありません。「お年寄りや身体の不自由な方」といってもさまざまで,座席を譲るべき場合もあれば,そうでもない場合もあり,その判断は人それぞれですが,人々はそのときの状況を見て座席を譲ったり譲らなかったりしていると思います。しかし,「全席優先席」とすると,その判断を誤れば自分がルール違反を犯したかのような気持ちにさせられるため,ルールを誠実に守ろうとする人は,過剰に「座席を譲らなければいけない」という強迫観念にかられ,安心して座席に座っていられません。そんなことを言いたかったのですが,このコラムを公開する際,読者に対し「反道徳的なことを言っている」との誤解を与えるのではないかという思いもありました。

 このコラムを公開して間もなく,私は,帰宅ラッシュ時の地下鉄に乗車したある日,車内が混み合っていたため,ドア脇の手摺りに身を寄せて立っていました。すると,次の停車駅で,そのドアから白杖を持った目の不自由な男性が乗車してきました。その男性は,混み合う車内で,私が身を寄せていた手摺りにつかまろうと手を伸ばしてきましたが,私の身体に手が当たったので,諦めて,つかまる物もないまま立っていました。私は,その様子を見て,その男性と立ち位置を替わろうと思いましたが,車内が混み合って身動きがとれなかったので,次の停車駅で乗客が下車して一時的に空いたときに,その男性に声をかけて立ち位置を入れ替わろうと思っていました。ところが,次の停車駅で私の近くの座席が空いたため,その前に立っていた女性がその男性に声をかけて座席を譲ってあげました。そのこと自体は良かったのですが,その結果,私は立ち位置を入れ替わる機会を失ってしまい,何だか悪いことをしてしまったような気分になりました。特に,先ほどのコラムを公開した直後で「反道徳的なことを言っている」との誤解を与えるのではないかという思いを持っていたため,「道徳の貯金箱」が満たされていなかったのでしょう。いっそうのこと悪い気分になりました。

 先ほどの差別的あるいは反道徳的(と見られる)言論について,何故,社会全体がこれを一斉に批判する空気に支配されるのか(批判に反論する意見や問題提起すらできないような雰囲気になるのか)という疑問ですが,その答えは,誰しもが無意識のうちに「道徳の貯金箱」を満たしたいという気持ちに駆られているということではないかと思います。

 そして,厄介なことに,「道徳の貯金箱」は,「道徳的に正しそうなこと」であれば,それが論理的に誤っていても,裏付けや深い考察を欠いた「きれいごと」であっても,魔法の呪文のように,それを口にすることで一応は満たされるようです(前出188~189頁)。逆に,論理的に正しく,あるいは,裏付けや深い考察に基づく見解であっても,「反道徳的であると見なされそうなこと」であれば,それを口にしただけで「道徳の貯金箱」は減ってしまいます。先ほどの質問Aに対する「正しい(一部の女性はあまり賢くない)」との回答は,論理的に見れば何ら差別的でも反道徳的でもありません(「一部の男性はあまり賢くない」との命題と両立します)。それにもかかわらず,被験者は,単に女性に対するマイナス的表現であるという1点のみで,女性差別的であるかのように感じ,論理的には正しいその回答に躊躇を覚えています。

 このように,多くの人々は,「道徳の貯金箱」を満たそうとして,論理や裏付けと関係なく,無意識のうちに「道徳的に正しそうなこと」に流されてしまっているのではないでしょうか。

 さらに,橘玲氏の著書には「正義は快楽である」とも書かれています(89頁)。すなわち,脳科学によると,道徳的な不正を働いた者をバッシングすると(「正義」を遂行すると),脳からドーパミンが放出されて快感がもたらされるそうです。2018年4月7日のコラム(中野信子著「ヒトは『いじめ』をやめられない」を読んで)で述べた「いじめ」のメカニズムと同じです。そのため,差別的あるいは反道徳的(と見られる)言論があると,社会全体がこれを一斉に批判する空気に支配され,さらには,理性による歯止めが効かず,その言論と無関係な発言者の人格に対する攻撃・非難まで加えるという現象が生じてしまうのではないでしょうか。

 差別的あるいは反道徳的(と見られる)言論に対して,その趣旨や論拠(発言者の言い分)をきちんと分析しないまま頭ごなしに批判しても何の解決にもなりません。逆に,橘玲氏が「きれいごとをいうひとは,道徳の貯金箱がプラスになったように(無意識に)思っているので,現実には差別的になるのだ。」と指摘し,実際にもその言論と無関係な発言者の人格に対する攻撃・非難まで加えられる現象が生じているように,道徳的に正しそうな「きれいごと」を言う人ほど,反道徳的な行動に出る危険性もあります。我々は,このような人間の本性を踏まえたうえで,「差別的あるいは反道徳的(と見られる)言論」について,その発言者の趣旨や論拠にも冷静に耳を傾けながら,もっと自由な雰囲気の中で議論すべきではないかと思います。

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